しらべない

<芸術は長く、人生は短い(Ars Longa, vita brevis)>

2017/08/20文京区散歩

比較的午前中はだらだらとしてしまったのだが、午後から散歩を兼ねて外出。東洋大学の図書館にいったことがなかったので行ってみた。昨日は立教大学の図書館にいったのだが、スコールにあってしまった。それはそれとして比較してみると、立教大学の図書館はかなり最高峰に良い。椅子の具合、キレイさ、蔵書具合も申し分がなかった。建て替えたからであろう、数年前と段違いでいい意味で裏切られた。通おう。

おっと、東洋大学の話であった。東洋大学もわるくはないが、椅子やファシリティはいまひとつ。良いのは、ベストセラーとか軽めの本が意外と充実していたことだった。近場にあったら区立図書館の代わりに使いたい感じである。ちょっと距離があるのでその用途では使えないが。そういう軽めの読書になってしまい研究は進まなかった。進める気がないな。

その後、なにを思ったか上野公園まで歩き、上野のヨドバシへ。iPadのキーボードに触りたくなりいったのだが、どこかのガキがずっとマリオを触っていてタッチできなかったので諦めてこれまたなにを思ったか秋葉原まで。秋葉原ではネット記事で気になっていたApple Pencilのスタンドを購入。レアモノのお店、アキバでは有名らしいのだが知らなかった。そこでペンスタンドを買い、ココイチを食ってビックカメラができたということなのでそこでiPadキーボードの代わりにたんなるスタンドを買い、それをためしたくてApple keyboardと組み合わせてこれを書いている。すぐに立ち上げられるようであれば論文にも良いかも知れんといいわけ購入。

で、これまたなにを思ったかユニクロで始めてジーンズを買って終了。いままで履いていたreplayのジーンズの十分の一の価格である。ストレッチだから履きやすいし。どんどんメリハリが出てくるな。ボトムだけは高いもの、という感じで思っていたが、あとは靴しかこだわりがない感じになってきた。靴はカンペール一択である。履きやすさで。

文京区はあまり取り上げられないがいい街である。おしゃれスポットもないけれど。上野の猥雑さも良い。ただ、本当にアジアな街になったのであまりふらふらとするとなんかちょっと外国の観光地みたいな危険な感じもあるのだけど。

ブログくらいならiPadでも十分であるなと気づいた。ただ変換はちょっとまどろっこしいのでMacBookでパチパチかくのがいいんだろうけど、カジュアルな感じで書きたい時はこういうのでこりこりこりと書くのも悪くない。分量だけならさくりさくりと千文字くらいならすぐに終わるなと思った。おわり。

指針メモ

  • 理論やエビデンスを背景に示す
  • でも、実態と乖離しないように現場のデータを用いる
  • フレームワークをうまくつかう
  • やってみて修正させるPDCA的にまずは一歩踏み出す
  • めんどくさがらずにやる
  • 創意工夫で楽しんでやる
  • 勝手にやる。せいぜいが身内。生きていけるさ。
  • なにより楽しもう

フェイスブックなるもの

昨日は上司と飲んでビューもないこのブログを見てもらってたらしくへえーと思い恥じるなどした。それはともかく。

フェイスブック見てて社交ツールすぎるやつがつまらなくなり、ガンガンアンフォローするなどしている。ツイッターが広がり切ったいま、ツイッター的呟きをフェイスブックでしても冷めるだけなのだが、だからといって真逆な世界に感謝、メルカリに感謝的なものはうんこすぎて見るに耐えない。💩

ほんとうに、つまらん感じないやつが嫌なんだろかなあと。大阪いるとますますそんな感じになる。大阪楽しい。スーパー包摂。

 

iPad Proからのブログ入力テスト

iPad Proを買ったのでテスト入力をしてみる。しばらく前に買って使っていなかったApple keyboardを引っ張り出してきてつかってみる。変換操作にタブキーを使う派のため、ちょっと慣れるまではストレスがありそうだけど、それなりに入力しやすい。これに慣れていこう。

ただ、変換機能はやっぱりグーグル日本語入力のほうが頭良さそう。ブログ程度ならいいけど、論文書いたり資料つくるのはiOS11をまったほうが良さそうだ。ファンクションキーも挙動が違うけど、こういうところもPCライクになるといいなと思う。

 

変え難きもの

心から、ああこれをやれることが幸せなのだ、ということに当たれることはきっと最高に幸せなのだろう。

余分なストーリーとして、ただ、楽しいがくるしい、たのくるしいなどと言ってみたり、自由の代償の責任が伴うと言ってみたり、表現の差はあれど、そうやって苦しいんですよ、をエクスキューズしたり強調したりするのは野暮なことで、好きだから、高揚感が得られるから、包摂感だからやっている、そうであるはずだ。

たしか漱石だったか、『私の個人主義』で”掘り当てる”話が出てきたと思う。この機会なので青空文庫を見てみた。

夏目漱石 私の個人主義
から引用をしてみる。

ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫さけび出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊こわされない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡もたげて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄もやのために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲ぎせいを払はらっても、ああここだという掘当ほりあてるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰ふみつぶすまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。私は忠告がましい事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、それが将来あなたがたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙だまっていられなくなるのです。腹の中の煮え切らない、徹底てっていしない、ああでもありこうでもあるというような海鼠なまこのような精神を抱いだいてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっしゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越こしているとおっしゃれば、それも結構であります。願ねがわくは通り越してありたいと私は祈いのるのであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。その苦痛は無論鈍痛どんつうではありましたが、年々歳々さいさい感ずる痛いたみには相違なかったのであります。だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛ゆうもうにお進みにならん事を希望してやまないのです。もしそこまで行ければ、ここにおれの尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯の安心と自信を握る事ができるようになると思うから申し上げるのです。

なんというか、そういうものでしかないものなのだろう。ただアディクトするというような。

同じようなことは、村上春樹の最近のエッセイとかインタビューを読むと感覚としてわかる。
最近は、サービスがすぎるくらいに詳らかにしてくれるのは継承性をちょっとは意識しているのかと思うくらい。

みみずくは黄昏に飛びたつ

みみずくは黄昏に飛びたつ

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

願わくば、自分もそういったものを見つけたいし、見つかったとしてコミットする勇気がほしい。もっと正確に言うと、コミットする勇気すら感じさせないでアディクトさせられるような対象と後半生は向き合いたいと思うのだった。

どこまでも個人的な人間は、個人的なままでも生きていけるシステムをつくりあげなくてはならない。
それは、自然に出来るものではないのだろうなと思う。意図的にハンドルを切って進路変更をしていかなくては。