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しらべない

<芸術は長く、人生は短い(Ars Longa, vita brevis)>

久しぶりに読んだ『14歳からの社会学』からのナラティブモード

読書 ナラティヴ

久しぶりに『14歳からの社会学』を読んだ。

14歳からの社会学: これからの社会を生きる君に (ちくま文庫)

14歳からの社会学: これからの社会を生きる君に (ちくま文庫)


正確にはあとがきをパラパラと風呂に入りながら眺めた。

会社で調べ物をしていて、なぜかこの本が文庫化されていると知ったので、ワンクリックしたというわけ。疲れてすぐ寝ようと思ったけど、なんだか帰宅してから何かを読まないと落ち着かないので、今日はたまたまこの本を手にとったというわけ。

忙しい日々が少しだけ一息つき、ふっと違うリズムになって我が身を感じてみると、身体疎外というか、なんだかからだと心が不一致な様相で、虚しさに似た気持ちにもなっている。5月病というのはこういうことなのかもしれないと思う。だって5月だから。

めんどくさいからだだが、論理ロジックで世間を捉えて戦略的に行動しましょう、それがビジネスなんだから、みたいな様式に、たまについていけなくなることがある。論理だけでなく感性が大事ですとか、名経営者が言うからそうだと思うのだけど、勘弁してくれ、魂に響かない、という時が疲労している時にはあったりする。

魂に触れるような言葉とか本に接したい、というように思っていたのか、そういう時は思い入れが強い作者の本を手に取るとなんとかエネルギーが得られることが多い。自分の場合は、春樹本、宮台本なんかが効くことがある。宮台本は、なんだかんだで、20の頃に読んで、しばらく遠ざかっていたけれど未だに高揚する。不思議なものだ、書いてある内容を超えて、迫ってくるものがある。

最近持っている仮説としては、エネルギーを貰える本というのは、中原淳的命題、在り方への再帰的な問いに耐えうる強度を持っているからではないかと思っている。ざっくりいえば、当事者性。言っているお前はどうなんだ、という実存的強度があるかということに行き着く。在り方に感染して、自分もがんばろうと思える。そう思えることで、まだやれるかもって思わせてくれる。やっぱり、うちで宮台先生とのプログラムをいつかやろうと思った。

本の付録対談に、「うまく言えないということはやはりうまく言えないということ」それを10年かけて理解した、というように宮台先生が書いていた。「わかりやすく言えないことは何か」それを徹底的に分かることが重要というようにも書いていた。

論理を突き詰めた先にも不可解なことが在るということ、それを徹底的に突き詰めた上で実感することが必要なのかもしれないと思う。

心は正直だ。知識注入とばかりに良い読書のためにみたいなノウハウ本とか、新しい型を身につけるためにという勉強のみをしていると、心に蓋がかかってくるようだ。

心が動かないことに不安になり、なんのためにわざわざ今から大学院いって方法論的なことを今からやりなおそうとしてるんだろうとか、グループワークハイ(実際はローになることもある)で、変性意識状態になることで、無理にポジティブになろうとしているのだろうかなどと、シニカルになることが最近あるのだが、そういう懐疑的なことを自分はそう思ってダメなやつだとか、押しとどめようとせず、そういうことを考えることが自分なんだというように捉え直そうかという気がしている。

西村佳哲さんが本に書いている、自分だけでなく「自分自身」でかかわること、そう思うと、取り繕うことに少しストップして、愛想よく反応することに集中しないで、本当にそうかという勇気をもって、つまりは自分自身という在り方で交流することを意識していこうかと思った。

ずーっと、未知のものに対する学びを100%日常に組み入れようとするのではなくて、元々人より強めに持っていそうな、ホンモノに対する強度センサーを意識して、それってホントに意味在るの?と懐疑するモードも土日くらいは組み入れてみよう。コミュニケーションもいいんだけど、孤独の時間をなるべくつくって、深く考えられる機会を意識したい。それこそ、梅田望夫の朝の習慣のように、春樹の午前中の執筆活動のように。


それにしても、アンバランスなんだろうな。愛想良い皮を被れば非論理とdisられるんだろうけど、一点むかしみたいなひねた懐疑的態度をとったりすれば、クリティカルだけどEQが低いやつ、みたいなコミュ障扱いになるんだろう。まだ、中道の道が見えず途方に暮れるが、今日みたいに心が動くヒントがあるというだけ、希望はあると捉えてみよう。

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