しらべない

<芸術は長く、人生は短い(Ars Longa, vita brevis)>

はじめてのまじめな研究会合宿

はじめてのまじめな研究会合宿へと参加した2日だった。帰ってきて職場なうであるが。


この2日間を、個人的にとても良い体験をした機会だったとふりかえる。なぜそんな場に居合わせることが出来たのか、あまりよくわからないが、チャンスというのは、他者からもたらされるものなんだとつくづく思う。もちろん、いつもチャンスのために張っておく行為が必要で、それを理論提唱したのがPlanned Happenstance Theory(Krumboltz1999)なのであるが。


さて、普段しない表記をしたが、大いに良い体験であったというのは、こういう表記をメインとするようなアカデミズムの作法の世界へと投げ込まれたからである。大げさにいえば、英語を介して情報を取り入れるような、そういったカベを現時点では感じるのであった。訓練とはよくいったものだ。私にはその耐性がないのだなと思った。そんな状態であるので、コンテンツの内容にフォーカスすることもままならず、戸惑うばかりであった。発言もあまり出来ず、貢献出来たとはとても言えない。ただただ学ばせていただいた、という感覚だけが残る。


コンテンツに関しては「組織論」なる分野のレビュー論文であり、概観してこういうことがこの分野では語られるのか(旬となるテーマであるのか)ということが感覚としてはつかめた。いまの時点では組織論に対して自分が向いている、向いていない、というレベルですらないだろうから、学びを深める対象とすべきかどうかはわからない。ただ、組織という“曖昧”とした実態へと自らを仮託することは感覚的に難しいのだという気持ちがしている。キーワードは好きなんだけどな。アイデンティティとか、コミットメントとか。


思うに、人そのものや、人の集団とかそれらがおりなす共同性には興味があるのだけれど、いざ組織という言葉に変換され、組織というものをひとつのパワー=主体としてみなしたときに、この概念に対するおそろしさとも、忌避ともつかない気持ちがあるのだと感じる。それがなぜなのかは良くわからない。組織をデザインする、組織を開発する、組織のアイデンティティを明らかにする…なんだか実態のない幻想に対して、あれこれラベルを貼っているような行為のような感覚を持っている。まあ、それは組織に限らず、個人ということにおいても、ひとりひとり異なるから、それを対象として研究をするということはどういうことなのか、という気がしている。


そう考えると、研究という行為はいったいなんであるのか、ということを思わずにはいられなくなった。研究って、論文を書き、考えをまとめる、というようにシンプルに定義すれば良いものなのだろうか。明確な意志をもって参入しないと、自分が考えている定義のあいまいさがあだとなって、研究という行為をなす事ができないようにも感じた。


知っていることのまとめ、は研究ではないだろうし、知らないことを知るためには、知っていることをまとめて(体系だって)知っていることが前提になくてはならない、ということがある。つまり、歩み始めるとすると、非常にながい「道」なのだろうと思う。そんなことを、いつも以上にまじめに向き合えたということは、貴重な機会だった。



先日、諸富先生の講義で「フォーカシング」について学んだ。簡単にいえば、自分の心の実感に触れるということ。自らの心をフォーカシングしたときに、これでなくてはダメなんだ、というレベルでの決断がないことには、安易に手を出すべきではないのかもしれない。


しかしながらに、アカデミックと社会のキワにたつマージナルマンとしてのわたしのアイデンティティをもつためには、アカデミックの作法に通じ、接続する“資格”を得なくてはならないようにも思う。そんな覚悟が―――極めて個人的な―――覚悟が必要なのだろうと考えた。


余興に、はんぶん、しかかり品であった、decadeプレゼン資料をフルスクラッチでつくりなおした。このときに、学生さん相手に話していたものがハンパだったので、きにかかってもいた。
首都大水越ゼミでお話しした - 体系立たない学びの場〜My sweet Andragogy〜(・o・)


作成してみて、来し方行く末をそれなりに考える機会をもてた。上記の機会とあいまって、次のフェーズのキャリア=居場所作りをしなくてはな、そのために、探索行為を含めて、それに向けた動き方にかえていかないとなと考えた。

「働く居場所」の作り方‐あなたのキャリア相談室

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sakenosakana


ご一緒出来た皆さまに感謝。奇跡のような機会でした。