しらべない

<芸術は長く、人生は短い(Ars Longa, vita brevis)>

社畜でない社員は存在するか

いつも愛読している脱社畜ブログ、先ほど更新をみたら非常に面白かった。どうしてもIDよりも脱社畜さんと思ってしまいすみませんです。id:dennou_kurageさんですね。
半沢直樹と社畜 - 脱社畜ブログ


自分も土日で一気見した人間。日野さんと同じように毎週みるよりも全10回ということなので、一気見してやろうと思っていた。ドラマをエンタメとして楽しんだ人間として、同じような感想を感じていたので、なんだか読んだ感想が嬉しかった。水戸黄門的構造というのもやっぱりそうかあと思っていた。お上に対してギャフンといわして溜飲を下げるという構造。まあ水戸黄門は自体は実はお上なんだけど。


日野さんが書いていた半沢も違わずに社畜という見立て。たしかにそうだ。グレート社畜ということだ。まさに半沢は社畜としての意地というか美学を描いたからこそウケたなのかもしれない。余談ながら、サラリーマン金太郎とか特命係長っていってももっと社畜かもしれん。パワーを有していて、単に反社会的勢力でないというだけで、きれいな用心棒みたいなもんだ。

大企業ならではの人間模様ではあるけれど、かといって中小、ベンチャーならば社畜ということもないのか、というとそうでもないと思う。自分自身も20代はかなり社畜であった。今だって、そうでないとは言い切れない。程度差である。


企業と個人の関係は対等である、という建前以前に、基本的に生殺与奪の権利は組織という得体の知れないパワー側にある、という図式を勘違いして、一社員の俺が会社を救うんだ、ということを主張しすぎるのはリスクであるし、ある種の奢りでもあるかもしれない。社畜ってものをどう定義するか、ということはまずあって、ちょっとした想像では、労働疎外された真の人間存在からはるかな忌むべき存在、というようにも思うが、基本的に大なり小なり、我々は社畜なんだと思う。中野渡頭取だって大和田常務だって、パワーの差はあれど社畜だ。役人である黒崎のカマ野郎にしても、国家のイヌという社畜と似たような、ある意味ではもっと大きなしがらみにあるのだとも言えるかもしれない。


自分が、どうも組織論とかに距離を感じているのもそういうところなのかもしれない。基本的に、ヒエラルキー構造を形成する組織というものに対して、全面的な同意など出来ない。以前も書いていたが、「組織という“曖昧”とした実態へと自らを仮託することは感覚的に難しい」と感じている。はじめてのまじめな研究会合宿 - 大人の学びをファシリする Carpe diem / Memento mori


しかしながら、一方で、他者の支援とか、組織開発というアプローチにも惹かれるものがあるのも事実である。人が集い織りなす集団が、ハマった時に、ひとりでは得られないカタルシスがあるのも知っている。それが企業体で果たせるのか、また果たされるべきであるのかはわからない。どちらかの極によらず、どっちも思っているという状態をひとまずは認めておきたい。


大半が社畜であるとして、ではどのようにその社畜を受け入れるのか、捉えるのかということがこの社会にいきるひとりひとりの問題であるのかなとも思う。村上春樹は社畜的存在を忌避して海外にいったりしていたよね。梅田望夫氏もそのスタイルに憧れ、10年以上をシリコンバレーでそのスタイルを実行していた。そのレベルが脱社畜なのかな。たんにベンチャー企業なり起業することや、大企業でパワーを得ることが解ではないようにも思う。自律し、自己決定出来る存在になることよりも、むしろ、いまここを全力で生きている、と思えることが、対抗しうる強度であるのかなという立場をとる。

半沢はかっこよかった。しかしながら、絶対正義でもない、その在り方は人間くさくてよかったな。むしろダーティヒーローぽくもあった。上司にイエスとしか言わない、ロボットのような仕事をしたら終わりだ、というメッセージもあったな。ドラマの描写は極端だとしても、仕事に思いがない人はいるし、そういう人は社畜だろうがなんだろうが、人としてつまらないと思う。俺は企業体は好きではないが社畜忌避と呼ぶほどに愛想が尽きてもいない。だけれども、いまを生きていない人は嫌いなんだなということは、ドラマを通して感じたことでもあった。


ここでも俺はゲシュタルト心理学的なマインドなんだなあとつくづく思った次第であった。
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