しらべない

<芸術は長く、人生は短い(Ars Longa, vita brevis)>

“オーソドックスな”研修はたいせつかも、おしえこみの価値もあるのかもとかおもった

主流、といって差し支えない勢いなのであるが、成人学習において、「共に学ぶ」とか「対話から学ぶ」というムーブメントがスタンダード化してきている傾向がある。少なくとも俺のまわり、つうかそれを手伝っている私であります。最初に立場を明確にしておくと、この学習観の転換、というか転回というべきものは奨励されるものではないかと思っているし、俺自身は確立するにお手伝いしたい気持ちである。

で、導管モデルというのは、ようはワンウェイの教えられ、教え込みのモデルである。知識、コンテンツと言い換えてもいいけど、それを脳内注入よろしくどんどんと注ぎ込むのでありますね。まあ、日本の教育のいままでのかたちであるし、今でもそうでしょう。そうやって育ってきましたし。


先日、研修提供をしていてのことなんだが、「わたしはこの場で知らないことを教わりにきているので、もっとレクチャーしてほしい。グループワークがあるんだけど、対話とか自己を開示出来るための心理的安全感とか、そういうことの問い自体がナンセンスなのではないか。」という問題提起がおこった。けっこうびっくりした。え?人間関係論的な話の講座でそうくるの??って思ったのは正直な事実。でもいっぽうで、そういうのがスタンダードなんだろうとはっと気づけた。

俺だって、そういう気持ちになったことある。具体的にいえば、SDMのワークショップなんかはそうだ。共創がコンセプトだから、そういう感じであらゆる立場の人とコラボワークをしながら創り、学ぶ。正直に告白すると、キツイ、俺自身の解が欲しくてきてるのに、共創ってなんだよ、ってファシリテーターを名乗りつつも思ったことを告白する。ってことは、素直な感情なんだよなと。知らないことをまずは教わって、カンドコロを得たいというのはフツーのことなんだろうと思う。

基本書読め、的なことは良く言われて、そういう風に思う自分もいる。基本書を読んだうえで、共通概念についてある程度知った後に確認的に対話で学ぶ、ってのが理想といえば理想だし、それが反転教育なるものの思想だったりする。「反転授業」とは何か? 成績が大幅にアップとの報告も【争点:教育】


レベル感もあると思うけど、別に対話満載でなくっても、レクチャーベースだとしたらbiteサイズにくぎって、20分ごとに2~3分となりと確認おしゃべりでもしてみたら良いのかもしれない。ま、こういうコンセンサスはないし、正直、教育工学の世界の先生しか強く意識していないので、まだまだ道半ばではあると思う。

オーソドックス研修+ターボ(おとなり対話)レベルからでもかわることが良いのかもしれない。とはいえ、根本的な要因は、デザインっていう構造的な視点よりも、その人の人間観のほうが大きいと思うんだけどね。教えられる人が、がんばってキャッチアップすべき、みたいな。あるいは前例踏襲というか、系譜というか、継続しているモードというか、そういうのもあると思うわな。
目覚ましブログであった。